上達の方法
良い一日とは、どういう一日だろうか。
今の私にとっては、何か新しい発見や達成が得られた日だと思う。しかし、大人になると、達成的・発見的喜びは、得ることがだんだんと難しくなってくる。簡単に得られる対象がなくなってくるからだ。多くの人は、毎日が、平凡で退屈なものになってしまう。
そのような状況から逃れるために、しばしば人は、お酒や性にそのはけ口を求める。しかし、そういった刹那的な快楽は、依存性を持っているので、より強い刺激を求めさせ、人を駄目にしてしまう。
では、どうすれば、達成的・発見的喜びを上手くえられるだろうか。例えば、私の場合、英語の読み書きや会話、また、日本語での文章や人前で話す力などをもっと上達させたいのだが、訓練や勉強をしていると、集中力が切れて、すぐに眠くなってしまう。集中力を切らさせないためには、
- 簡単なことと難しいことを組み合わせる。
- アウトプット作業を組み込む。
- レベルを下げる。
といったことがある。これを、上達の方法と呼ぶことにすると、新しいことに取り組んでも継続できない人というのは、上達の方法を身に付けていない人ということになるだろう。そういう人は、平凡で退屈な日々を送るか、お酒や性などの刺激や快楽に更ける日々を送るしかない。上達の方法を身に付けて、そのような日々からおさらばしたい。
退屈なGW
昨日からGWで9連休なのだが、彼女が調子が悪くて会うことも出かけることもできず、家で過ごしている。
今の彼女とは、3年半近い付き合いになるのだが、最近、彼女の都合で会えず、暇ができてしまうことが多く、退屈から逃れたい気持ちも相俟って、誰か他の女性と遊びたいという誘惑に駆られることがある。
しかし、彼女への罪悪感があるし、恋人でもない相手に、たくさんのお金を使うことも嫌だ。また、刹那的な快楽を目的とした関係に伴う強烈な虚しさも嫌だ。結局、何もできずに悶々としていた。
しばらく、どうしたものかと思っていたのだが、ふと話し相手を見つければよいのではないかと思いついた。ネットでもリアルでどちらでも良い。そうすれば気が紛れるだろう。スクールや勉強会などで探すのも良いかもしれない。
書くことの効用について
ブログを書き始めて約1週間程経つが、正直言って、書いた文章も全然面白くないし、大した意味も感じられない。
ただ、今ブログを書いている目的は、自分の中にある膿を出すことにあるので、これで良いと思っている。ウォーミングアップみたいなもの。そういった意味では、いろんな問題に気づかされるので、役に立っている気がする。こういう使い方もありだろう。
ただ、膿を出すのであれば、もっと踏み込んだ方が良い気がする。この点は、今後の課題としよう。
転職について
転職しようと考えている。以前にも一度転職をしているのだが、そのときは、正直言って、当時の仕事・会社が嫌になって、いわば現実逃避で辞めてしまった。そういう意味では、後ろ向きの動機に基づく転職だった。しかし、今回の転職は、現在の職場ではできないことをやれる環境を求める、という前向きな動機に基づく転職である。
現在の職場では、以下のような問題があった。そのため、役割と役職の間に乖離があり、私は役割としてはPLの立場にありながら権限やリソースが無く、プロジェクト管理が上手く行かなかった。
①役割や業務範囲が曖昧(ジョブディスクリプションがない)
②多重派遣
③偽装請負
このような役割と役職の乖離の背景には、部署間や会社間の「政治」や日本の会社の文化・慣習があり、下から意見を上げて変わるようなものではない。実際、意見を上げたこともあったが、ほとんど変わらず虚しさだけが残った。
今思うのは、組織に問題があるのであれば、組織をボトムアップで変えることにエネルギーを注ぐよりも、もっと良い組織に移ってしまう方が、はるかに良いということだ。
以前、同じプロジェクトで一緒に働いたキルギス人は、外資系企業の日本法人の担当者だったが、親会社側のトラブルで周りから責め立てられることが多く、しばらくするとあっさりと転職してしまった。
日本人は、農耕民族の文化的遺伝子のせいか、不満があっても同じ場所に居続けてしまいがちであるが、今の日本の社会では、ほとんどの人は1つの会社で一生働き続けるわけではないのだから、運悪く悪い会社に勤めてしまったら、今の会社よりも良い会社に転職すれば良い。そうすれば、悪い会社からは人が居なくなり、結果、悪い会社が市場から淘汰される。それは、労働者にとっても社会にとってもWin-Winな状況といえるはずだろう。
退屈について
毎日、基本的に退屈だ。特に平日は会社と家の往復。帰ってきて1人で夕食を食べてYouTubeやNetflixで動画を見て、寝るだけの生活。退屈というだけでなく、こんな生活が死ぬまで続くのだとしたら、残りの人生に何か意味があるのだろうかと思うこともある。とはいえ、人生を無意味なものとして過剰に意味付けることも、それ自体無意味だと思う。
本を読むとか映画を見るとか音楽を聴くとか、あるいは、運動するとか、お酒を飲むとか料理をするとか、デートするとか、若いときは楽しかったことが、あるいは、初めの頃は楽しかったことが、年とともに、あるいは、繰り返すうちに、感じられる楽しみが減ってくる。また、その時その時は、それなりに楽しいし、気も紛れるが、結局また退屈な生活に帰って、平日がんばるための気休めに過ぎないのかと思うと、そういった気晴らしも、そういう生活を補完・強化するためのものであって、本当に自分がやるべきことは違うことなんじゃないかと直観している。